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長嶋先輩を
偲んで

押忍と発し 失礼しますと
急ぎ逝く 九十年の 血潮を胸に
「長嶋くんを偲び」昭和43年卒 酒井広重

去る4月11日 OBOG会長として長きに渡り大変ご活躍された長嶋克佳先輩がご逝去されました。

故長嶋克佳先輩におかれましては、法政大学応援団OBOG会長として法政大学応援団・法政大学応援団OBOG会に多大なるご尽力を賜りました。

改めまして、法政大学応援団OBOG会に於ける長嶋先輩の数々の生前のご高配とご尽力に深く感謝し、その功績を讃え、謹んで哀悼の意を表します。

ここで、いただいたメッセージを紹介します。

会長の訃報に接した折には只々驚きであった。
あまりにも早い御逝去、会長任期の途中である。「残念無念」
「九十周年記念式典」を直前に丸二年に渡り実行委員長と共に論議の先頭に立ちまとめあげて来た矢先の急死、只々無念の思いであっただろうと推測されます。
式典にかかわる諸問題、自身の経営等、日々の心労が察するにあまりあるものがあります。
去る四月十一日も神宮球場にて「友の会」の皆様と野球観戦応援をされ帰宅なされた直後の御不幸、母校・応援団OBOG会に一身を捧げた一生であったと思います。
今後は残された同志一同の結束による式典の成功をどうぞ黄泉の世界より御見守り下さいませ。
合掌

昭和31年卒 西川正行



OB会長長嶋君の急遽、将に青天の霹靂。
往年「団史編集」に精力的にご協力頂いたことに思いをいたし、謹んでご冥福を祈ります。

昭和27年卒 猪狩吉房



神宮でお会いした翌日の訃報にただただ驚くばかりでした。。
会長が力を入れていた90周年行事の成功に全力を注ぎます。
心よりご冥福をお祈りいたします。

昭和62年卒 松尾裕仁



法政大学応援団を長きに渡り物心共に支えて下さり、洵にありがとうございました。
我々も先輩のご遺志を受け継いで、少しでも応援団活動のサポートに貢献できればと思います。
どうか安らかにお休みください。

昭和59年卒 長裕章



おまえ!
九州に転勤してたんだよな!
昨年は海外遠征で行かれなかったが 今年の熊本での九州支部は楽しみだな!
その前に、我が社の創立パーティーには必ず来いよ!

まさかそのお約束した その日が、最後の御別れの日に変わるとは 露も思わず。
長嶋先輩には 應援團としてもさることながら、同じIT業界に携わるものとして
何かとご指導賜わり、ときには親も及ばぬほど親身に ご叱正を頂きました。
ご恩返しも これからというときに本当に残念であります。

今後 どの様な難局に立ち向かった時にも
長嶋先輩ならば、どの様に立ち振る舞われるだろうと 想い起こし
ご教示頂きました ご教訓を我が人生に活かし生きていくことこそが
ご恩に報いる道と改めて覚悟致しております。

生前の お姿を偲びつつ、心からお悔やみを申し上げます。

平成元年卒 萩原康一



長嶋先輩に最初にお会いしたのは二年の夏だったと思います。当時長嶋先輩はリッカーミシンの野球部の都市対抗野球の応援団として法政大学応援団に来られてました。ご自分でもリッカーマーチとか色々な応援歌を産み出してました。当時リッカーミシンは銀座コリドー街にありY先輩やK先輩を死ぬほど銀座高級クラブにてお世話をなさったようです。 ( ̄□ ̄;)!!、(ご自身談です。脚色は加えておりません。)自分がOBになってからも自宅が近いせいもあり何かとお世話になりました。親父の葬儀の際はわざわさ田舎まで足を運んで戴いたのを昨日のように思い出します。あっと言う間に長嶋先輩は逝ってしまわれましたが何か長嶋先輩らしくもあります。合掌

昭和57年卒 岩田恵吾



私は大学2年から長嶋先輩にお世話になり、無事に卒団、卒業を迎えることができました。長嶋先輩がいなければ今の私はおりません。感謝してもしきれない程、本当にお世話になりました。
最近は私の勝手な都合で、ご挨拶できない日が続いており、4月中に近状報告の手紙を書こうとしていた矢先の出来事でした。言葉にできないほどのショックを受け、何もできなかったことを強く後悔しました。
今後は長嶋先輩に受けた恩を、ご家族の方、後輩たち、大学関係者、地域の人々に返せるように努力していきます。本当にありがとうございました。

平成22年卒 高橋正大



長嶋へ捧ぐ
謹んで長嶋君の御霊に申し上げます。
長嶋、君とは昭和42年入団の同期で、君は工学部(小金井)、自分は二部法で、リーダー部には本校を含めて40数名入ったが、合宿等を経て残ったのは8人だった。横川、市原両先輩などが工学部と二部の新人のため、合同の夜間練習をしてくれ、団室前から靖国神社を抜けて千鳥が淵まで走り、暗い外灯の下で蛮声を張り上げて練習し、アベックに嫌われたものだ。
君は常に8人の先頭に立ち、後輩の面倒もよく見た。人の上に立つ生来のリーダーマンで神奈川の名門、県立厚木高校でも応援団と、まさに応援団のために生まれてきたような男だった。合宿のマラソン、神宮球場の外周走りなどは常に先頭で気力・体力、群を抜いていた。当時は、法政3羽ガラスと言われた田淵、山本、富田、投手に山中、江本がいて4年間の春秋8シーズンで5回も優勝した。早稲田に谷沢、荒川、明治に高田、星野などスターがいて、神宮も連日学生で溢れたものだ。
君の結婚式の司会は自分がつとめたが、自分の結婚式は君に知らせずこっそり行った。しかし君は同期数人と式場に駆けつけてくれたうえ、後日、我々新婚夫婦を招いて、神楽坂で明治などの仲間を含めての祝い会まで設けてくれた。まことに申し訳もない。
卒業後、苦労して起業し、今や、冠とした会社に育てたが、やりくりが大変な頃、やむなく部下にやめてもらう際の辛さ、心の痛みをしんみり話してくれたことがある。人一倍の人情家の君だからなんともやり切れず苦しかったことだろう。人との付き合いを君ほど大切にする男を知らない。OB会の会長として、また、校友会の理事として、幅広い人脈・ネットワークを縦横に駆使し、北海道から九州まで駆け巡ったが、今思うと、疲れ知らずの頑張りが徐々に身体を弱めていたのかも知れない。我々六大学の同期は、君の音頭で毎年のように集まった。君が居ればこその集まりだった。今後はそうはいくまい。それにしても会社の創立25周年記念、応援団の90周年記念という華やかな節目の年に、その音頭、リーダーを取る寸前で、旅たつとは・・。人生の実りの秋を迎え、これからじっくり味わおうという時期に・・さぞかし無念だったろう。痛惜の念に耐えない。
長嶋ありがとう。これまでの友情に心から感謝とお礼を申し上げ、ご冥福を祈る。写真は、昭和45年の四国今治合宿の一コマ(右が長嶋、左が小生)

昭和45年卒 寺島哲四